近所の桜並木がいつの間にか枝が数本撤去されてまして。
現在の町に来て以来楽しんでいた満開の桜が、
なんだか今年は間抜けな坊ちゃん刈りのようで拍子抜けしました。
しかし、なんだかんだ4月二週目くらいまで持った生命力に拍手。
と、いうわけですっかり葉桜な季節になりましたね。
皆様如何お過ごしでしょうか。
まともな更新はお久しぶりです。茸です。残念ながら相変わらずです。
我がコースにもとうとう「後輩」という存在が生まれてしまい、
ぼくは気がついたら「年上・先輩」となっていました。
どういった筋の怪奇ミステリーなのでしょうか。
本人は至って若造ポテンシャルなので些か実感が薄いのですが、
さすがにちょっと幼顔(しかしみんなぼくより背が高い。。。)な人達から
「先輩!先輩!」と敬語で話しかけられると、虚勢を張ってしまいます。
やれやれ。。
電車を見渡しても、慣れないブレザーに艶めいたローファーを召した
高校生や中学生、果ては小学生(私立かっ・・!!)が可愛くて仕方ないです。
でも女子高生って如何なるときもスカート短いね!
まだプリーツ真新しいのに!せめて最初くらい普通の長さで穿こうぜ!
ミニスカートは美学じゃない派の人間です、今年度も死にそうに生きます。
15・16日にあった
岡村ちゃんのライブツアー「むこうみずでいじらしくて」が
終わった以降はしばらーーーくおしごとばかりでした。
あと、大学の準備等。
むこいじツアーで物販破産するかな。。と若干恐れていましたが、
なんとか欲望を抑えることに成功して、笑
TシャツとUSBを買いました。(でもそれだけで7000円飛んだ。。笑)
そいでもってとうとうやっちゃいました。
人生初のジャニーズライブDVD!
ほらーー!前回思ったとおり岡村ちゃん並の熱の上りよう!!
(ちなみにこのDVD買った翌週辺りに中古でまた二枚買ってる)
と、いうわけでV6さんと岡村ちゃんに振り回されてばかりの日々です。
あれ。。もう四月二週目の水曜・・?週末DATEじゃないですか。。
また会えるんだ!(歓喜)終わったら当分また会えない・・(落胆)
ところで、ここ数年間当ブログほぼ一筋でやってるわけなんですが、
「いつも」ってカテゴリと「はなし」ってカテゴリが
どういう分け方したらいいんだか(作った当人なのに)
しょっちゅうわからないのです。
ってわけで、普段の生活や出かけた記録として前者を使うようにするため
むこいじツアーと、↑のDVD感想は別記事に書きたいと思います。
って書いたところで最近出かけた事は(おしごと・学校除く)
ウテナ展行きがてら友人と遊んだのと、寺山修司展に母と行った位です。
(あ、どっちも展覧会・・・。)
旅行は本当に今回、我が家にしては珍しい、何事もない普通の旅でした。
アレです。「名探偵コナン」の人の死なない回・むしろ大した事件じゃない回、
みたいな旅行です。(喩えが殺伐としている)
ウテナ展。
正直、「少女革命ウテナ」って見たことないんです。
アーバンとか、少女的なものを好んでいるとよく目にしたり、
話題に上ったりしていたのですが、如何せんよく知らない。。
誘ってくれた友人がすごーーくファンでよく話を聞いたりはしていました。
そんなんで原画行って楽しいのか?とお思いでしょう?
恐らくファンの方なら、今回のぼくの感動の5倍から10倍、それ以上の感動が
あるとは思いますが、個人的には十分楽しめました。
非常に繊細な絵のタッチにはもう、ただただ脱帽物です。
コンピューターで描かない絵とはこんなに繊細なのか!と。
(PCで描く絵も緻密で素晴らしいとは思いますが)
セル画独特の鮮烈な色遣いや、青色鉛筆の影指示など、
製作的にも、一人のキャラクターを生み出す意味合いでも、
非常に生々しくて美しい一瞬が壁一面に並ぶ様は圧巻でした。
アニメ作るってすごいなあと改めて思うわけです。
製作者様方お疲れ様です。早いとこウテナ見るようにします。
ちなみに、このウテナ展では同じ原作・監督担当の幾原氏の作品、
「輪るピングドラム」というアニメの原画展も同時開催でした。
ぼくはこちらのアニメが大好きで、これを目当てに付いて来たのです。
こちらは本編の最後に登場する「エンドカード」の原版や、
キャラクターデザイン担当だった星野リリィさんの書き下ろしもありました。
その、書き下ろしのイラストがとてもとても素敵で、
キャラクターそれぞれの物語が凝縮された絵で、
あまりの素晴らしさに友人たちから離れてボロボロ泣いていました。笑
いい作品だったなあ。と改めてこういう時感じますね。
寺山修司展。
こちらは世田谷文学館というボソッとした場所でありました。
行ったのが最終日の3/31で、なにやら町並み全体も春休みが終盤に
迫っているのを表すかのように割合静かで落ち着いた空間でした。
途中の桜がひたすら綺麗でぼくは梶井基次郎を思い出してしまいました。
(サブカル系大学生の意識高い一言)(爆笑ポイント)
肝心の中身はわりと修司の生い立ち〜天井桟敷までの時代を
フューチャーしたもので、彼の短歌・俳句・手紙が所狭しとありました。
字が独特で、まさに物書き(ちょっとナルシー?)な書体。
俳句や短歌は非常に美しい文字列で、ジワッと血液が反応するような
熱を感じます。
言葉が種ならば、修司の才能が土となり水となり、
俳句や短歌となって花が咲き、ぼくたちが鑑賞している。そんな気分です。
しかし、読んでいると「んん?」と感じます。
それは「どうしても滲み出ている悲壮感・哀愁・憂い・自意識表現」です。
個人的には噛み砕いて「溢れ出る中二病感」と解釈しています。
(どこかの誰かに怒られそう)
何に関してもそうですが、
中途半端であるからネタにもされず、才能とも認められないのです。
つまり、本当の中二の子が書いたようなポエム染みた詩や、
思い描くラノベのような小説には勿論「中二病らしさ」が漏れ出してます。
まあ大抵それは「痛々しい」ことの象徴です。
(ほらほら、ご経験あるんじゃないですか、そこの読者さんニヤニヤ)
しかし、「溢れ出る中二感」があるのに、これだけ長く評価される修司は
何が違うのか。とぼんやり思いました。
それは、圧倒的な量の読書と、本当の経験からの「中二病」であるから。
という結論に至りました。
彼は幼少期ほとんど両親と共に生活できませんでした。
きっと愛が不十分だったのでしょうか。
その空いた空間に文字と物語をとにかく詰め込みました。
彼は「孤高の才能と語彙力」を「普通の生活と愛情」を引き換えに得た
ようにぼくは感じました。
その証拠というわけではありませんが、
癖と言うのは人間の弱点で、嫌でも出てしまいます。
修司は恩師への手紙で相談事や考えを吐き出してつながり合っていました。
その文面は時に反抗心むき出しで、時に不安の闇に怯えて、
時に楽しそうで堪らず字が踊っていたり、
時に崩した文字が虚しさに打ちひしがれていました。
「『天井桟敷』のための部屋を探す時、ここにしようって決めた部屋がね、
大きな本棚がズラーってあったんです。
その本棚があるってだけで世田谷のこの土地に引っ越してきたんです。
膨大な自分の本を置く、大きな本棚のために。」
天井桟敷が出来る時のエピソードを語る映像で、九條今日子氏が
語っていたこの話が粋で、堪らなく好きです。
彼に会えてよかったなあと思える展覧会でした。